ヒンドゥー教

ヒンドゥー教の三神一体トリムールティとは

更新: 三輪 智香
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ヒンドゥー教の三神一体トリムールティとは

トリムールティとは、創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァを、単なる3柱の並立ではなく、単一の聖なる存在が3つの機能として現れた様相とみなすヒンドゥー教の理論です。

トリムールティとは、創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァを、単なる3柱の並立ではなく、単一の聖なる存在が3つの機能として現れた様相とみなすヒンドゥー教の理論です。
三神一体という日本語訳はキリスト教の三位一体を連想させますが、三柱は力関係の上で対等であり、究極実在ブラフマンのあらわれとして理解されます。
トリムールティは、世界が生まれ、保たれ、壊れて再び生まれるという宇宙の循環を表し、とくにシヴァの破壊は終焉ではなく次の創造への準備として受け取られます。
マイトリー・ウパニシャッドに萌芽が見え、ヴァーユ・プラーナやクールマ・プラーナで教義として整えられたこの概念は、古代から固定していた信仰というより、後代に多様な神々を総合して形づくられた思想だといえるでしょう。
キリスト教の三位一体と比較されることは多いものの、唯一神の3位格か、3柱の神格をどう捉えるかという構造は似て非なるものです。
インド哲学とサンスクリット文献を研究してきた立場から見ると、この違いは原語と文献に即して整理するのが何より大切であり、トリムールティを「三神一体」とだけ覚えるより、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァが何を分担し、なぜそう語られるのかを押さえるほうがおすすめです。

トリムールティ(三神一体)とは何か

トリムールティ(三神一体)は、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァを単に3柱の神として並べるのではなく、ひとつの神聖な存在が姿を変えて現れた3つの様相として捉える考え方です。
比較宗教の授業ではしばしばヒンドゥー版の三位一体のように短絡されますが、語義の精度を保つなら、まず tri(3)と murti(姿・像)から成る「3つの姿」という意味を押さえる必要があります。
そこを曖昧にすると、3柱が別々に見えても根ではつながるという発想の核心がぼやけてしまいます。

『3柱の神』ではなく『1つの存在の3つの様相』

トリムールティの要点は、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァが力関係の上で上下する3神ではなく、単一の究極存在が機能ごとに現れた対等な相であることにあります。
むしろ「主神が3人いる」のではなく、「1つの実在が3つの働きに分かれている」と理解したほうが、この思想の輪郭ははっきりします。
サンスクリットの murti は単なる「神」ではなく、目に見える形としての「姿・像」を指す語でもあるため、人格神の列挙よりも、顕現のあり方を示す言葉だと受け取るべきでしょう。

創造・維持・破壊という宇宙の3機能

3柱が担うのは、宇宙の創造・維持・破壊という3機能です。
ブラフマーは始まりを、ヴィシュヌは秩序の保守を、シヴァは終わりと更新を受け持つ。
もっとも、ここでいう破壊は単なる終焉ではなく、次の創造へ移るための再生の契機として理解されます。
ヴィシュヌが世界の乱れに応じて化身として地上に現れ、秩序を回復するという発想も、この循環の中に位置づけるとわかりやすいでしょう。

神格主な機能トリムールティ内での意味
ブラフマー創造宇宙の始動を担う
ヴィシュヌ維持秩序と持続を支える
シヴァ破壊終末ではなく再生への転換点を示す

この三分割は、3人を並べているようでいて、実際には宇宙の循環を1つの構造として見せています。
なぜ3人で一体なのかという疑問には、機能を分けて理解するのが答えになるのです。

究極実在ブラフマンとの関係

トリムールティの背後には、多様な神々の根底にある究極実在ブラフマンという哲学があります。
3柱はそれぞれ独立した頂点ではなく、ブラフマンへ向かう異なる入口として整えられた像だと考えられるため、信仰の多様性を対立ではなく調和へ導く役割を持ちます。
マイトリー・ウパニシャッドに萌芽が見られ、ヴァーユ・プラーナでは「ブラフマンの3つの顕現」として論じられ、クールマ・プラーナでは一つの存在としての同一視が強調されました。
こうした流れを見ると、トリムールティは単なる3神の組み合わせではなく、広がりつつあった神々の世界をまとめ上げる思想装置だったとわかります。

ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァそれぞれの役割

トリムールティは、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァの三神を、創造・維持・破壊という宇宙の働きに対応させて理解する枠組みです。
三柱は別々に並ぶ神々というより、世界が生まれ、保たれ、ほどけていく流れを分担する一つの秩序として捉えるとわかりやすいでしょう。
ここを押さえると、個々の神の物語が、なぜ全体の循環と結びつくのかが見えてきます。

創造神ブラフマー:宇宙と言葉の源

ブラフマーは、宇宙万物を生み出す創造神として位置づけられます。
ここでの「創造」は単に物質を作ることではなく、世界が始まるための秩序や仕組みそのものを立ち上げる働きです。
音のオームやサンスクリットの言葉と結びつけられ、知識や智慧の神としても理解されるのは、世界がまず「名づけられ、語られ、意味をもつ」ことから始まると考えられてきたからです。

この見方に立つと、ブラフマーは世界を「始める」神だといえます。
生み出す力と、理解可能なかたちに整える力が重なっている点が要であり、ただの始原神ではありません。
トリムールティの出発点として置かれるのは、宇宙のサイクルに最初の推進力を与える役割が、言葉と知の秩序に支えられているからです。

維持神ヴィシュヌ:秩序を守り化身する神

ヴィシュヌは、生まれた世界の秩序と調和を保つ維持神です。
世界が乱れるたびに化身(アヴァターラ)として地上に現れ、悪を退けて正義を回復するとされます。
ラーマやクリシュナのような個別の物語が広く親しまれるのはそのためですが、そこで終わらず、「世界維持」という大きな機能の表れとして見ると役割がはっきりします。

ℹ️ Note

化身は単なる変身譚ではなく、秩序が崩れた現場へ神の働きが降りてくる、という理解の入口です。

ヴィシュヌの重要性は、守ることが消極的な停滞ではない点にあります。
世界は放っておけば乱れ、関係は崩れやすい。
だからこそ、守護は能動的で、しかも具体的です。
化身という形を取るのは、抽象的な維持の力を歴史や物語の中で見えるようにするためであり、読者が三神の中で最も身近に感じやすい理由にもなっています。
ブラフマーが始め、ヴィシュヌが保つ。
その中間の支えが、宇宙を日常の世界に接続しているのです。

破壊神シヴァ:終わりと再生を司る神

シヴァは破壊神とされますが、その破壊は終焉そのものではありません。
古い世界を壊し、次の創造への道を開く再生・新生の力として理解されます。
受講者がシヴァを「破壊神=怖い神」と一面的に捉えていたのに、再生の側面を知って印象が一変する場面は少なくありません。
破壊と創造は断絶ではなく連続であり、ここを外すとトリムールティの全体像が見えなくなります。

シヴァの働きは、維持された秩序がやがて硬直し、更新を必要とする段階で意味を持ちます。
壊すことは悪ではなく、次に進むための解体です。
だからこそ、創造・維持・破壊は別々の働きでありながら、一つの循環を形づくります。
三神は独立した寄せ集めではなく、創造→維持→破壊→(再)創造という宇宙のサイクルを回す関係にあります。
この循環構造こそが、トリムールティを一体として理解するための核心です。

トリムールティの起源と発展の歴史

項目 内容
名称 トリムールティ
形成の軸 ヴェーダ時代以降の三神観の総合
初期言及 『マイトリー・ウパニシャッド』(紀元前1千年紀後半)
教義化 ヴァーユ・プラーナ(4〜6世紀ごろ・最古級のプラーナ)
強調された一体化 クールマ・プラーナ(8世紀ごろ)

トリムールティは、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァの三神をひとまとめに捉える後代の総合概念です。
三神それぞれには古い由来がありますが、3者を1組として「創造・維持・破壊」に結び付ける発想は、ヴェーダ時代そのものではなく、その後の文献層で少しずつ形を整えました。
文献研究の現場では、これを太古から固定した三位一体だと思い込んだ読者が、実際の典拠がプラーナという比較的後代の文献群にあると知って驚くことが少なくありません。

ヴェーダからウパニシャッドへ:萌芽の段階

トリムールティの芽は、ヴェーダ以降に三神の組み合わせが意識されるようになった過程にあります。
ここで大切なのは、最初から三神が一つの教義として並んでいたのではなく、異なる神格への信仰が後に整理され、全体像として読み直された点だ。
『マイトリー・ウパニシャッド』(紀元前1千年紀後半)には3神を1組として触れる記述があり、起源としてしばしば言及されますが、この段階ではまだ後のプラーナ的な明確な「一体」教義には至っていません。

この年代差が示すのは、概念が一夜にして生まれたのではないという事実でしょう。
ウパニシャッドからプラーナへという文献の層の違いを追うと、紀元前から中世までの長い時間の中で、神々の関係づけが徐々に密になっていく様子が見えてきます。
三神の配置は古代の固定信仰ではなく、後代に編まれた総合なのです。

プラーナ文献で教義として確立

概念がはっきりした教義へと結実するのは、プラーナ文献の時代です。
シヴァ派のヴァーユ・プラーナ(4〜6世紀ごろ・最古級のプラーナ)は、三神を「ブラフマンの3つの顕現」として明確に論じ、トリムールティの教義化における画期になったとされます。
ここで三神は単なる並列表現ではなく、究極実在ブラフマンが多様な姿で現れるという哲学的枠組みに組み込まれるのである。

さらに、三神を一つの存在として同一視する思想はクールマ・プラーナ(8世紀ごろ)で強調されました。
読者がここで押さえるべきなのは、創造・維持・破壊の三機能が、個別の神々の独立性を消すためではなく、むしろ多様な信仰を一つの説明原理へまとめるために使われている点です。
トリムールティは神話の整理ではなく、教義の統合装置として働いています。

シンセティック・ヒンドゥー教の総合の試み

こうした展開は、ヴェーダ以降に多様な信仰を一つの体系へまとめようとするシンセティック・ヒンドゥー教の動きの一環です。
異なる神への信仰を否定するのではなく、それらを究極実在ブラフマンの哲学と調和させることで、相互に矛盾しない体系へ編み直したところに特徴があります。
トリムールティは、その調停のための見取り図として発展したと整理すると分かりやすいでしょう。

この観点から見ると、トリムールティは単なる三神信仰ではありません。
『マイトリー・ウパニシャッド』の萌芽、ヴァーユ・プラーナの教義化、クールマ・プラーナの一体化という段階を踏んで、古い信仰を束ね直す歴史的な産物になったのです。
そこには、分裂した神々を無理に単純化するのではなく、むしろ複数性を保ったまま大きな秩序へ包み込む、インド宗教思想らしい柔軟さが表れています。

オーム(AUM)と三神を結ぶ象徴

オーム(AUM)は、ヒンドゥー教で最も神聖な音として扱われ、A・U・Mの3音を通じて創造・維持・破壊を示す象徴として理解されてきました。
3音が合わさる全体は究極実在ブラフマンを指し示すとされ、トリムールティの三神と響き合う構図になります。
日常の唱和として親しまれる音が、宇宙の成り立ちまで結びつくところに、この象徴の強さがあります。

聖音オームと創造・維持・破壊

オームは単なる発声法ではなく、世界そのものを読み解くための象徴でもあります。
A・U・Mという3つの響きに、始まりと保ち、終わりの働きを重ねると、神々の役割が抽象論ではなく一つの音の連なりとして把握できるからです。
ヨガや瞑想でオームを唱える経験を持つ人に、この意味を伝えると、耳慣れた音が急に宇宙論的な厚みを帯びたものとして立ち上がってきます。
実践の場では、そこに気づいた瞬間の反応がとても鮮やかです。

この読み方は、トリムールティを固定的な三神像として見るだけではなく、宇宙の循環を表す原理として捉える視点を開きます。
オームの全体がブラフマンを象徴するとされるのも、個別の音の意味を超えて、声そのものが究極実在へ接続する回路になるためでしょう。
聖音は祈りの道具であると同時に、世界理解の型でもあるのです。

三グナ(性質)との対応

創造・維持・破壊は、三グナとの対応でも語られます。
サットヴァは調和、ラジャスは活動、タマスは停滞を表し、これらが世界の変化と沈静を支える三つの性質として理解されます。
ここで重要なのは、トリムールティが神話上の分業にとどまらず、宇宙を動かす根本原理と結びつけて語られる点です。
神々の働きが、世界のあり方そのものに接続されているわけです。

ただし、この対応づけには諸説があります。
オーム、三グナ、トリムールティを一対一で固定してしまうと、象徴が持つ幅を取り落としてしまうからです。
実際には、どの伝統を重く見るかで意味の置き方が変わり、創造・維持・破壊は相互に重なり合って理解されることもあります。
断定を避けながら見るほうが、かえって体系の奥行きが見えてきます。

要素基本的な意味対応づけの役割
サットヴァ調和維持の安定性を支える性質
ラジャス活動創造や変化を促す性質
タマス停滞破壊や終息に結びつく性質

エレファンタ石窟の三面像

象徴は音だけでなく、石の造形にも現れます。
ムンバイ沖のエレファンタ石窟にある三面像は、一つの胸像に3つの顔を刻み、創造・維持・破壊の三相を一身に表した代表的な作例として知られます。
高さ約6〜7メートルにも及ぶため、前に立つと像の情報量が一気に押し寄せてきます。
写真で示すと「3神一体が一目でわかる」と受け取られやすいのも、視覚的な説得力が強いからでしょう。

ℹ️ Note

ただし学術的には、これをシヴァの三相、つまりマヘーシャムールティとみる解釈も有力です。「3神を彫ったもの」と単純化すると、作品の読まれ方を狭めてしまいます。

この像がグプタ=チャールキヤ美術の傑作と評価されるのは、三つの顔を並べただけではなく、単一の身体に複数の時間感覚を宿らせているからです。
創造、維持、破壊を別々の存在に切り分けず、ひとつの神格の中に折り重ねる発想は、インド宗教美術の象徴解釈の幅をよく示します。
見学するときは、見た目の分かりやすさに引き寄せられつつ、その裏にある解釈の重層性も確かめてみてください。

女神版トリデーヴィーと配偶女神たち

トリデーヴィーは、トリムールティに対応する女神の三位一体で、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの働きをそれぞれ支えるシャクティとして理解されます。
サラスヴァティー、ラクシュミー、パールヴァティーという三柱を並べると、ヒンドゥー教の世界観が男性神だけで閉じず、女神の側からも組み立てられていることが見えてきます。
男性神中心だと思っていた学習者が、ここで見方を大きく変えることは少なくありません。

トリデーヴィー:3柱の女神

トリデーヴィーは、trī=3とdevī=女神を組み合わせた呼び名で、三神それぞれに対応する配偶女神を一組として捉える概念です。
ブラフマーにはサラスヴァティー、ヴィシュヌにはラクシュミー、シヴァにはパールヴァティーが結び付けられ、神々の働きが女神と対になって語られます。
ここで示されるのは、神の秩序が男性神だけで完結せず、女性原理を含むことで初めて立ち上がるという発想です。

この対応関係は、単なる夫婦の組み合わせとして見るより、三神の機能を別の角度から補う仕組みとして理解したほうがよいでしょう。
知識や芸術を担うサラスヴァティー、富や幸運を表すラクシュミー、山の娘であり母なるパールヴァティーが加わることで、創造・維持・破壊の三機能は、それぞれに厚みを持って描かれます。
吉祥天や弁才天として日本でも親しまれている存在が含まれるため、身近な接点から入ると理解しやすいはずです。

各女神の役割とシャクティ思想

シャクティ思想では、女神は神に外付けされた存在ではなく、神そのものの力として位置づけられます。
だからこそ、男性神は女神の力を離れては働けないと考えられ、トリデーヴィーも「妻」という説明だけでは足りません。
むしろ、宇宙を動かす根源的なエネルギーが、女神の姿をとって現れていると読むほうが自然です。

サラスヴァティー、ラクシュミー、パールヴァティーをこの視点で見ると、三柱はそれぞれが独立した象徴であると同時に、神々の機能を成り立たせる条件にもなります。
創造には知の秩序が要り、維持には豊かさと安定が要り、破壊には変化を引き受ける力が要る、という構造です。
日本で吉祥天や弁才天に親しんだ人なら、その親密さを手がかりにしても理解が進むでしょう。

ℹ️ Note

ヒンドゥー教を男性神中心と見ていた学習者が、シャクティの重みを知ると、同じ神話でも意味の重心がずれて見えるようになります。トリデーヴィーは、その入口としてとても題材です。

女神中心のシャークタ派の見方

女神中心のシャークタ派では、三機能そのものが女神に割り当てられます。
マハーサラスヴァティーが創造、マハーラクシュミーが維持、マハーカーリーが破壊を担い、三つの働きが女神側に集約されるのです。
トリデーヴィーがトリムールティを補完する形だとすれば、こちらは同じ枠組みを女神中心に組み替えた世界観になります。

ここが面白いのは、三機能が「誰かの補助」ではなく、女神自身の本務として示される点にあります。
つまり、宇宙の生成から終末までを、女神が自らの力として引き受けるわけです。
ラクシュミーやサラスヴァティーに親しみを持っていた人ほど、マハーラクシュミーやマハーサラスヴァティーという最高神化の感覚を受け取りやすいでしょう。
パールヴァティーが単なる配偶者ではなく、破壊と再生の局面を支える存在として見えてくると、トリムールティの理解もぐっと立体的になります。

キリスト教の三位一体との違い

比較項目 キリスト教の三位一体 トリムールティ
基本構造 唯一の神が父・子・聖霊という3つの位格を持つ 創造・維持・破壊を担う3柱の神格を一体として捉える
関係の中心 位格の同等性が教義の核になる 3神の役割分担が前面に出やすい
働き方 3位格は本質的に同等で、同時に働く 創造→維持→破壊のように時間的な分担が意識されやすい
宗教史上の運用 一神教の枠内で整合的に理解される ヴィシュヌ派やシヴァ派のように、1神を最高位に置く運用が目立つ

三位一体とトリムールティは、どちらも「3」を手がかりに理解されがちですが、出発点から異なります。
前者は唯一神の内部にある父・子・聖霊の関係を述べる教義で、後者は創造・維持・破壊を担う3柱の神格をまとめて捉える枠組みです。
似て見えても、神の数え方と神学の焦点が違うのです。

『唯一神の3位格』と『3柱の神格』

キリスト教の三位一体は「1つの神が3つの位格を持つ」という発想に立ち、父・子・聖霊を切り分けて別神とみなしません。
これに対してトリムールティは、ヴィシュヌ、シヴァ、ブラフマーのような3柱の神格を、宇宙のはたらきに応じて並べて捉える見方です。
ここを取り違えると、三位一体を「ヒンドゥー版」と雑に言い換えてしまい、教義の骨格を見失います。
比較の軸は、数ではなく構造にあります。

同等性と時間的な役割分担の違い

三位一体では、3位格は本質的に同等で、しかも同時に働くとされます。
父だけが先に存在し、子や聖霊が後から付け足される、という理解ではありません。
これに対しトリムールティは、創造→維持→破壊という順序で機能が分かれる傾向が強く、『同時か継起か』が大きな違いになります。
実際、現場で「トリムールティはヒンドゥー版の三位一体です」と説明が広まりすぎるほど、この差が誤解の中心になるのです。

さらにヒンドゥー教の実態を見ると、ヴィシュヌ派やシヴァ派のように自派の神を最高位に置く傾向があり、3神を厳密に対等とみなす運用は一般的ではありません。
三位一体が位格の同等性そのものを教義の核に置くのとは、ここが決定的に異なります。
三位一体が「同じ本質の内的関係」を問うのに対し、トリムールティは「宇宙機能の配分」を見ている。
見比べると、焦点の差は明快でしょう。

名称の類似は伝播ではなく偶然か

名称や「三つ組」という形式が似ているため、どちらかが他方を借りたのではないかという俗説も語られます。
だが、成立背景、文献、神学の組み立ては別々に考えるべきで、類似がそのまま伝播の証拠になるわけではありません。
学習者に多いのは、形が似ているだけで歴史まで一本化してしまう理解です。
だからこそ、文献と成立年代に即して「類似=伝播ではない」と押さえておく必要があります。
ここを丁寧に分けて考えると、安易な起源論に流されずに済みます。

なぜ三神一体は信仰として定着しなかったのか

トリムールティは知名度の高い概念ですが、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァを同一視する発想がヒンドゥー教の文献に現れる例は多くなく、宗教美術の主題としても限られてきました。
入門書では「ヒンドゥー教の中心教義」のように扱われがちでも、実際には理念が先行し、生きた信仰として広く共有されたわけではないのです。
授業でも「なぜ三神一体は定着しなかったのか」という質問はよく出ますが、答えは宗派対立とブラフマー信仰の衰退を重ねて見ると腑に落ちます。

教義としての有名さと信仰の実態のギャップ

トリムールティは、教義の説明としてはよく知られています。
ところが、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァを対等にまとめる理論そのものがヒンドゥー教の文献にたびたび現れるわけではなく、日々の礼拝の中心にもなりにくかった。
ここに、知名度と信仰実態の落差があります。
概念が整っていても、実際に人々が寺院で祈る対象にならなければ、共同の信仰として根づくのは難しいのです。

ヴィシュヌ派・シヴァ派の最高神争い

背景には宗派の事情があります。
ヴィシュヌ派ではヴィシュヌが、シヴァ派ではシヴァが、それぞれ他の神々を超える最高神とされます。
そのため、3神を横並びに置いて祀る発想は、各派の神学と最初から緊張関係にあるのです。
どの宗派も自派の神を頂点に据える以上、トリムールティは共通の礼拝対象になりにくい。
理念としては理解できても、信仰の現場では優先順位が合わないということです。

創造神ブラフマーが祀られない逆説

象徴的なのがブラフマーの扱いです。
創造を司る重要な神でありながら、ブラフマー単独を本尊とする寺院はインドでも極めて少なく、ラージャスターン州プシュカルの寺院が最も有名な事実上唯一の主要寺院とされます。
『創造神なのになぜ寺院がほとんどないのか』という疑問は授業でも頻出ですが、この逆説を押さえると理解しやすい。
最も根源的なはずの神が、礼拝の中心から外れてしまうのはなぜか、という問いになるからです。

その背景には伝説も重なります。
プシュカルでは、ブラフマーが妻サヴィトリ(サラスヴァティー)の到着を待たず、別の女性ガーヤトリーを迎えて儀式を行ったため、怒ったサヴィトリの呪いでブラフマーは各地で祀られなくなったと語られます。
神話は後づけの説明に見えて、実際には「なぜブラフマーだけが弱いのか」という信仰の現実をよく言い当てているのです。
トリムールティを『ヒンドゥー教の中心教義』と紹介する入門書は多いですが、プシュカルの逸話と宗派対立を二段構えで見れば、理念先行だった落差がはっきり見えてきます。

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三輪 智香

インド哲学・仏教学を専攻し、南アジア・東南アジアの寺院での瞑想修行・現地調査を経験。サンスクリット語・パーリ語の文献読解が可能で、東洋宗教全般の思想的連続性を丁寧に解説します。

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