比較・コラム

日本人はなぜ無宗教なのか|割合62%と3つの理由

更新: 柏木 哲朗
比較・コラム

日本人はなぜ無宗教なのか|割合62%と3つの理由

日本人の宗教観は、江戸期の寺請檀家制度と1995年の宗教不信を経て形づくられた「無宗教」が出発点です。比較宗教学の講義で「無宗教の人は手を挙げて」と聞くと8割ほどが挙手し、続けて「今年初詣に行った人は」と問うと同じ手がほとんどまた上がる光景は、その矛盾をそのまま映しています。

日本人の宗教観は、江戸期の寺請檀家制度と1995年の宗教不信を経て形づくられた「無宗教」が出発点です。
比較宗教学の講義で「無宗教の人は手を挙げて」と聞くと8割ほどが挙手し、続けて「今年初詣に行った人は」と問うと同じ手がほとんどまた上がる光景は、その矛盾をそのまま映しています。
信仰している宗教はないと答える人が62%にのぼる一方で、初詣の実施率は76.4%、約7割が「宗教的な心は大切だ」と答えるため、無宗教は無信仰ではなく、行動と自己認識がずれた状態だとわかります。
この記事では、その数字の整理だけでなく、海外で無宗教を atheist と訳すと誤解が生じる理由まで含めて、日本人の宗教観を自然宗教と創唱宗教の枠組みから読み解いていきます。

結論:日本人の62%は「無宗教」だが「無信仰」ではない

日本人の無宗教は、数字だけ見ると「信仰している宗教はない」62%、「何らかの宗教を信仰している」36%という形で現れます。
けれど、この設問は葬祭時だけの関与を信仰に数えないため、初詣に行き、墓参りもする人が「なし」に入ることが起きます。
ここで見えるのは信仰の有無より、設問の線引きです。

あなたはどのタイプ?無宗教3タイプ早見表

タイプ特徴該当する行動海外での説明語
行事参加型教団には属さないが、生活の節目では宗教的習慣に触れる初詣、墓参り、仏壇への手合わせをするnot religious, culturally religious
関心なし型宗教的行事や教義への関心が薄く、日常でも宗教を意識しない宗教的な行事をほぼ行わないnonreligious, secular
個人的信念型特定教団には属さないが、超越的なものや目に見えない力は信じる教団には入らず、祈りや独自の信念を持つspiritual but not affiliated

この3タイプに分けると、「無宗教」という一語がいかに広いかが見えてきます。
海外からの留学生に「あなたの宗教は?」と聞かれた学生が『無宗教です』と答え、相手が戸惑ったのは、本人は正月に初詣へ行き、実家には仏壇があったからです。
本人の感覚は間違っていません。
ただ、その自己申告は「信仰を持たない」というより、「特定の教団に属していない」という所属の申告に近いのです。

「信仰なし62%」と「宗教心は大切7割」が両立する理由

同じ日本人の約7割が「宗教的な心は大切だ」と答えます。
ここに、日本人の無宗教を「無信仰」と訳してはいけない理由があります。
信仰は持たなくても宗教心は肯定する、この二層構造がはっきりあるからです。
宗教意識の調査票を設計したとき、「信仰している宗教はありますか」と「宗教的な心は大切だと思いますか」の2問で回答傾向が正反対になり、設問の置き方で見え方が変わることを強く感じました。

信仰している宗教はない という答えは、宗教的行動の不在を意味しません。
初詣の実施率は高く、墓参りも年1〜2回が多い層があり、日常のふるまいと自己申告がずれるのは自然です。
だからこそ、無宗教は信念の否定ではなく、生活の中で宗教を名乗る必要がない状態として理解するほうが実態に近いでしょう。

この記事で扱う3つの論点

この先では、無宗教がなぜ日本で定着したのかを3つの角度から見ていきます。
まず統計のカラクリを確かめ、次に江戸期の寺請檀家制度から1945年の敗戦、1995年の宗教団体による大規模事件までをたどり、最後に「無宗教」という言葉をどう再定義すべきかを整理します。
統計で感じた違和感が、歴史を読むとつながり、言葉を見直すとすっきりするはずです。
読者が自分を無宗教だと感じる感覚は正しい。
その意味が思ったより狭い、というところから始めましょう。

データで見る無宗教の割合:調査で数字が割れる理由

5年ごとに続く国民性調査では、1998年時点で「信仰している宗教はない」が63.2%、2013年時点でも7割以上が信仰・信心を持たないと答えています。
個人に聞く調査では無宗教は6〜7割でおおむね安定しており、急に増えた数字ではありません。
ところが、宗教団体の自己申告を積み上げると風景は一変します。
聞き方と集計の単位が違うだけで、同じ日本の宗教人口がまるで別の姿に見えるのです。

調査タイプ調査対象示す数値数字が動く理由
個人への意識調査18歳以上の個人「信仰している宗教はない」62%、1998年は63.2%、2013年は7割以上が信仰・信心を持たない自分で宗教を名乗るかどうかを聞くため、所属より自認が反映される
団体への悉皆調査宗教団体の自己申告信者数合計1億8,114万人、登録団体数約22万4,500、総人口約1億2,600万人の約1.5倍氏子や檀家を含めて重複計上され、同一人物が複数の団体に数えられる
国際比較調査各国の個人意識調査日本は無神論者を自認する割合が世界2位の水準「宗教があるか」ではなく「自分を無宗教とみなすか」を測るため、国際比較でも日本の低さが出やすい

個人に聞くと6〜7割が「無宗教」

講演で「日本人の何%が無宗教だと思いますか」と聞くと、答えは6割から9割までばらつきます。
理由は単純で、参加者が見ている数字がそれぞれ違うからです。
ある人は個人調査を思い浮かべ、別の人は宗教団体の統計を頭に置いている。
宗教統計を初めて突き合わせたとき、信者数の合計が人口を6千万人近く上回っていて、集計方法の注記を何度も読み直したくなったのは、その落差があまりに大きかったからです。

個人調査に限れば、日本では無宗教の自認が長く6〜7割で推移しています。
2013年に7割以上が信仰・信心を持たないと答えた事実は、無宗教が近年の急増現象ではないことを示します。
むしろ、日常の感覚として宗教を強く意識しない人が多い状態が、そのまま数字になっていると見るほうが自然でしょう。

団体に聞くと信者は人口の1.5倍になる

宗教団体の側から数字を積み上げると、合計1億8,114万人、登録団体数約22万4,500という値になります。
総人口約1億2,600万人の約1.5倍です。
ここで起きているのは、同じ人が神社の氏子でもあり寺の檀家でもあるという重なりで、個人を一人ずつ数える調査とは前提がまったく違います。
団体側の見方では、日本人は「宗教過剰」になるわけです。

この乖離は、どちらか一方が誤りだという話ではありません。
所属を団体単位で拾えば数字は膨らみ、自認を個人に尋ねれば数字は縮む。
つまり、同じ年の同じ国の宗教人口が、聞く相手を変えるだけで6割の無宗教にも人口の1.5倍の信者にもなる。
そこに日本人の宗教観の骨格があります。
所属は自動的に発生するが、自認は発生しない、その感覚です。

設問の書き方で数字が10ポイント動く

設問文の差も無視できません。
「信仰」と問えば数字は下がり、「宗教的な心」や「先祖を敬う気持ち」と問えば上がります。
無宗教を自認する層を含めても約7割が「宗教的な心は大切だ」と答え、初詣の実施率は76.4%、墓参りも年1〜2回が最多層です。
ここでは、無宗教が無信仰を意味しないことがはっきり見えます。
行動や感覚は宗教的でも、本人は「宗教」と名乗らない。
そこが日本の数字をややこしくしているのです。

だから、無宗教の割合を語る記事やニュースを見たら、まず「誰に何と聞いた数字か」を確かめてください。
同じ日本でも、個人への質問なのか、団体の自己申告なのか、あるいは設問が「信仰」なのか「心」なのかで、答えは平気で10ポイント以上動きます。
単一の数字を鵜呑みにしないこと。
おすすめです。
調査の問いを見てから数字を読む、その順番で見てみてください。

国際比較:日本の無宗教は世界でどの位置にあるか

日本の無宗教は、世界の中では例外というより、世俗化の進む大きな流れの中に置いて見ると輪郭がはっきりします。
世界の宗教人口を見渡すと、キリスト教が約23億人、イスラム教が約20億人で、その次に無宗教層の約19億人が続く。
無宗教は日本だけの現象ではなく、世界人口の4分の1近くを占める大きな潮流です。

国・地域無宗教層の傾向背景
日本無宗教を自認する人が多く、意識調査では無神論者の割合が世界で2番目に高い水準生活の中に初詣や葬儀など宗教的行動が残るが、所属意識は弱い
米国キリスト教徒自認率が2007年の78%から6割台前半へ低下信仰や教会から離れる「脱宗教」が進む
西欧無宗教層が増え、教会所属の低下が目立つ近代化と世俗化で宗教離れが進展
北欧公的には宗教文化が残るが、日常では非宗教化が強い福祉国家化と個人主義の浸透
中国無宗教とされる層が厚い国家体制と伝統宗教の再編が重なっている

無宗教層は世界で約19億人の第3勢力

無宗教層は世界で約19億人に達し、宗教人口の並びでは第3勢力です。
ここで見落としやすいのは、無宗教が「何もない空白」ではなく、すでに巨大な人口圏をつくっている点でしょう。
日本の無宗教も、その一部として理解したほうが実態に近い。
国際比較の焦点は、日本が無宗教だから珍しいのではなく、世界の広い潮流の中でどういう型に属するか、という点にあります。

国際学会で日本の宗教統計を発表したとき、会場がざわついたのは「無宗教62%」の数字ではありませんでした。
「初詣76%」のスライドを出した瞬間、質疑が行動データに集中したのです。
所属は薄いのに行動は濃い。
そこに、日本の無宗教を読む鍵があります。

欧米の「脱宗教」と日本の「非宗教」は別物

欧米で進んでいるのは、信仰や教会から離脱する「脱宗教」です。
米国のキリスト教徒自認率が2007年の78%から6割台前半へ低下したのは、その典型で、かつて属していた共同体を降りる動きだと捉えられます。
だから欧米の無宗教は、以前の所属を前提にした「離脱」の語感を持つのです。

日本は事情が違います。
欧州出身の研究者から「教会を離れた理由は何か」と繰り返し問われたことがありますが、日本人には離れる前の所属がないと説明するまでに時間がかかりました。
日本はそもそも属していない状態が続く「非宗教」に近く、同じ無宗教でも向いている方向が反対です。
信仰を捨てたのではなく、信仰共同体に入らないまま暮らしてきた、ということです。

日本の特異性は数字より説明の難しさにある

国際的な意識調査では、日本は無神論者を自認する人の割合が世界で2番目に高い水準にあります。
ただし、この数字をそのまま受け取ると見誤ります。
「無宗教」を選ぶ選択肢が、調査の翻訳や分類の過程で無神論に寄せられるため、統計上の分類と実態にズレが生じるからです。
神を積極的に否定していなくても、国際調査では無神論寄りの箱に入ってしまう。
ここに数字の罠があります。

だからこそ、日本の特異性は無宗教の比率そのものより、「宗教を持たないことを問題として意識してこなかった歴史の長さ」にあります。
驚かれる理由は数字の大きさではなく、説明の難しさにあるのです。
行動は宗教的なのに所属は語れない。
このねじれをどう言葉にするかが、日本の無宗教を国際比較で理解する核心になります。

なぜ無宗教になったのか:江戸から1995年までの4段階

無宗教は、個人が自発的に信仰を手放した結果というより、江戸の檀家制度から明治の神仏分離、敗戦後の宗教忌避、そして1995年の事件までを通じて、宗教との距離が少しずつ「安全な標準値」に固定されてきた帰結です。
家の所属、国家の儀礼、学校教育、社会の空気が順に重なり、宗教を強く名乗らない態度が最も摩擦の少ないふるまいになりました。
年表で見ると、その変化は驚くほど連続しているのです。

江戸:檀家制度が信仰を「家の手続き」にした

時期出来事宗教観への影響
江戸期寺請檀家制度で家ごとに寺への所属が固定信仰は選択ではなく管理になり、葬式仏教が定着する

江戸期の寺請檀家制度では、人々は「家」単位で特定の寺に所属することが求められました。
そこでは、何を信じるかよりも、どの寺に登録されているかが先に来る。
戸籍管理に近い行政手続として仏教への所属が固定されたため、信仰は内面の問題というより、村や家を回すための外形になっていきました。
結果として、先祖供養を中心にした葬式仏教が生活に深く根づきます。

祖父の葬儀のとき、親族の誰も自家の宗派を即答できず、位牌の裏書きと寺の過去帳でようやく確かめたことがありました。
所属は続いていても、信仰の記憶は途切れる。
ここに、現代の「気づいたら実家の宗派が決まっていた」という感覚の起点があります。

明治〜敗戦:国家神道が宗教心を歪めた

時期出来事宗教観への影響
1868年以降の明治期神仏分離令で神仏習合を制度的に切り分け、神道を国家の祭祀へ再編宗教と国家儀礼の境界が曖昧になり、信仰が「義務」の形を帯びる
1945年の敗戦後国家神道が解体され、宗教が公的領域から切り離される宗教を語らないことが中立で安全だという規範が定着する

1868年の神仏分離令は、それまで一体で拝まれてきた神仏習合を制度の上で切り分けました。
明治期には神道が国家の祭祀として再編され、「これは宗教ではなく国民の義務だ」という論理で運用されます。
こうなると、信仰は自由な選択ではなく、国家に従うふるまいと重なってしまう。
宗教心は自然に育つものではなく、外から形を与えられるものへと歪められたのです。

戦後の1945年、敗戦によって国家神道が解体されると、今度は宗教そのものが公的領域から一斉に遠ざけられました。
学校教育でも特定宗教に踏み込まないことが徹底され、宗教を話題にしないことが中立で安全だという感覚が広がっていく。
宗教は残っていても、語る場所だけが細くなっていきました。

戦後〜1995年:宗教アレルギーの完成

時期出来事宗教観への影響
1995年以降宗教団体による大規模事件が起きる特定教団への帰属表明そのものが忌避され、「無宗教です」が無難な自己申告になる

1995年の宗教団体による大規模事件は、長く積み重なってきた沈黙に決定打を与えました。
特定の教団に属していると表明すること自体にリスクを感じる空気が生まれ、関わりを持たないこと、少なくともそう見えることが身を守るふるまいになる。
無宗教は思想として選び取られたというより、制度と事件が連続して残した既定値です。
大学の講義で当時の報道映像を流すと、事件を知らない世代の学生からも「宗教は怖いと親に言われて育った」という感想が毎年必ず複数出てきます。
宗教への距離感は、まさにそこで再生産されているのでしょう。

行動は宗教的:初詣76%・墓参り・お守りが示す矛盾

初詣で神前に立つ人の多くは、自分を無宗教だと答えながら、元日にはきちんと手を合わせます。
76.4%という初詣の実施率は、その矛盾を感覚論ではなく数字として示しています。
習慣として毎年参拝する層も約6割にのぼり、帰属の有無より、年の節目に神仏へ向き合う行動のほうが生活に根づいていることが見えてきます。

まず、宗教的行動を行動・実施率・宗教的意味・自認とのズレの4列で並べると、実態は輪郭を持ちます。

行動実施率宗教的な意味自認とのズレ
初詣76.4%年頭の加護と区切りを求める参拝無宗教でも年初に神社仏閣へ向かう
墓参り年1〜2回が最多層先祖とのつながりを確かめる行為宗教帰属より家の慣習として続く
お守りの購入30代女性が最も多く、次いで40代受験・健康・安全への安心装置信仰告白ではなく実用目的で買う
仏壇への供花・神棚への供花非公表日常の中で先祖や神に手を合わせる宗教意識より生活作法として残る

正月と盆だけ宗教的になる生活者

元日の神社では、「自分は無宗教だが縁起物だから」と話す家族連れの手に、お守りと破魔矢があった。
ここには、教義への同意ではないが、必要な場面では神仏の力を借りるという態度がそのまま表れています。
受験を控えた学生が「信じてないけど一応」と学業成就のお守りを買い、合格後にきちんと返納しに来る流れも同じです。
信仰の宣言より、節目に合わせた実践が先にあるのです。

墓参りは年1〜2回が最多層で、仏壇や神棚への供花も含めると、先祖祭祀はまだ生活の端に残っています。
お守りの購入が30代女性で最も多く、次いで40代が続くことも、宗教が理念ではなく不安への対処として働いていることを示します。
人生の節目や健康への不安が強まる局面で行動が増えるのは、宗教が実用的な安心装置だからでしょう。

「いいとこ取り」は信仰の欠如ではない

正月は神社、盆は寺、結婚式は教会、12月はクリスマス。
この「いいとこ取り」は、しばしば無節操の証拠のように語られます。
だが、教義の整合性ではなく、場と季節に応じて神仏へ向き合う自然宗教の作法として見れば、むしろ一貫しているのです。
矛盾しているのは行動ではなく、それを測る物差しの方だと言ってよいでしょう。

世代で薄れる先祖祭祀の実践

ただし、先祖祭祀に関わる行動は50代以上に比べて40代で実施率が有意に低下しています。
世代が下がるほど、墓や仏壇に向かう回路は細くなり、無宗教は自認だけでなく実態にも近づきつつある。
行動としての宗教性が薄れている以上、いまの日本人の宗教性は「信じているか」ではなく「何をしているか」で見たほうが実態に近いはずです。
自分の1年間の宗教的行動を数えてみてください。
今の感覚より、ずっと多いかもしれません。

「無宗教」の正体:自然宗教と創唱宗教で読み解く

日本人が「無宗教です」と言うとき、神を否定しているわけでも、信仰心がないわけでもありません。
多くの場合は、キリスト教・仏教・イスラム教のような創唱宗教に入っていない、という意味で使われます。
ところが実際の生活では、初詣、墓参り、家の祭祀のような自然宗教の作法を続けているため、言葉の範囲と実態がずれて見えるのです。

創唱宗教と自然宗教の違い

違いを先に整理すると、焦点は「誰が始めたか」と「信じる側にどんな決断が要るか」です。
創唱宗教は教祖と教義がはっきりしており、信者になるには入信という意思決定が伴います。
自然宗教は土地や家に根づいた神仏を、名もない人々が世代を超えて受け継ぐ形で続いてきました。

教祖教義入信の有無日本での位置づけ
特定の教祖がいる明確な教義があるあり宗教として自覚されやすい
特定の始祖がいない慣習と継承が中心なし生活習慣として扱われやすい

この違いが見えると、キリスト教・仏教・イスラム教が「入る宗教」なのに対し、神棚、祖先祭祀、年中行事は「生まれた時から身についている営み」だとわかります。
だからこそ、無宗教と答える人が多くても、宗教的なふるまいが消えるわけではありません。

日本人の「無宗教」は創唱宗教への無関心

日本人の「無宗教です」は、創唱宗教への所属を持たないという自己申告であって、宗教性そのものの不在ではありません。
自然宗教の実践者としての自分は、そもそも統計上カウントされにくいので、「無宗教」という語が指す範囲は思ったより狭いまま残ります。
62%と76.4%の矛盾も、ここを取り違えると解けません。
片方は無宗教の自己申告、もう片方は宗教的な心を大切と考える感覚を拾っているからです。

誤解も3つほどほどけます。
無宗教は無神論ではなく、神の否定ではなく教団への非所属です。
無宗教は信仰心がないことでもありません。
宗教的な心を大切と考える層が約7割いる以上、心の向きと所属は別物だと考えるほうが自然でしょう。
さらに、いいとこ取りはいい加減さではなく、祖先祭祀や年中行事を場面ごとに整える自然宗教の作法としてきわめて整合的です。

海外の取引先との会食で、日本人参加者が「I'm an atheist」と答えた瞬間に場が固まったことがあります。
本人は実家の墓を守り、毎年初詣にも行く人でしたが、atheist は神の不在を積極的に信じる立場として受け取られやすく、相手の信仰まで否定した響きになってしまったのです。

海外で聞かれたときの正しい答え方

留学中に宗教を問われ、無宗教を直訳して説明したときも、会話はそこで止まりました。
そこから言い方を変えて、「not religious, but I visit shrines at New Year」と行動から伝えるようにすると、相手はすぐに理解し、話題も続くようになりました。
神の有無は判断できないという立場なら agnostic、特定の宗教を実践していないだけなら not religious や I don't follow a specific religion のほうが実態に近いです。

自分の宗教観に合う一語を、あらかじめ決めておきましょう。そうしてみてください。相手に伝わるのは肩書きではなく、どんなふうに生きているかだからです。

シェア

柏木 哲朗

宗教学・比較宗教学を専攻し博士課程修了。宗教学の教養書籍の執筆・監修に10年以上携わり、世界各地の宗教施設でのフィールドワーク経験を持つ。宗教を「人類の文化現象」として体系的に読み解きます。

関連記事

比較・コラム

入れ墨は、宗教によって冒涜にも信心にもなる行為である。中東の宗教文化と東洋宗教を横断して見ていくと、その落差には何度も驚かされるが、結局のところ分かれ目は「禁止か容認か」ではなく、神が与えた身体をどう捉えるか、そして聖典や伝統をどう解釈するかにあります。

比較・コラム

宗教ごとの飲酒ルールは、イスラム教、シク教、キリスト教、ユダヤ教、仏教を並べて見ると、単なる禁止か許容かでは整理できません。『コーラン』第5章90節が示すイスラム教の禁酒は神の明確な命令に支えられ、仏教の不飲酒戒は他の戒を破る引き金を断つ遮戒として運用されるため、

比較・コラム

国旗に描かれた宗教シンボルは、世界の約64か国に見られ、その中心はキリスト教の十字とイスラム圏の三日月と星、そしてアラビア文字です。国際スポーツ大会の入場行進で次々と現れる旗を見て、十字や三日月の「なんとなくの宗教イメージ」が本当に当たっているのか確かめたくなり、一覧にして見直すと、

比較・コラム

最後の審判とは、世界の終末に復活した全人類が生前の行いに応じて裁かれ、天国と地獄へ振り分けられる思想である。ミケランジェロの壁画や終末報道で耳にすることは多いが、キリスト教・イスラム教・ゾロアスター教のあいだで何が共通し、どこが決定的に違うのかは意外と整理されにくい。